2015年11月14日

社屋建替えにあたり

社屋建替えにあたり
平成27年11月 吉日
株式会社 榛原電業
代表取締役 植田浩行


このたび株式会社榛原電業は社屋の建替えを行っております。
社屋建替えに当たり皆様にお伝えしたいことがあります。
後に何らかの形で正式にお伝えする場を作りたいと思っておりますが取り急ぎ書面にて失礼をします。

今回、弊社は社屋の建替えに踏み切りました。今までは先代が居住していた住宅を改修し事業所として使用をしてまいりました。資本効率、経営効率、後継者問題を考えれば現状のままでも良いと考えたこともあります。
今回非常に悩みましたが手狭になったことや自分の事業家、経済人、経営者としての想いもあり、社屋建替えに踏み切りました。
それは一言で表すならば「決意と約束」であります。
弊社が創業し3代目の代表である私が今後弊社をどのよう未来に進むべきか示すことであり、経営理念である「誇れる会社にする」ための一つのプロセスでもあります。

「決意」それはこの榛原電業をこの地域で私の時代だけでなくその次、その次と事業を継承し地域と共に繁栄をして行くという事。
そのために人材育成、技術の鍛錬と継承、事業の拡大、何よりこの会社を引継ぐ経営者の育成を行っていきます。
またそれはお客様、地域の皆様、取引先、社員に対しての「約束」でもあります。
「安心して使える安全な電気設備の供給」「修理や困った時の受け皿」として弊社はこの地域において役割を担い事業活動をさせていただいております。

近年後継者不足による廃業をよく耳にする中、弊社は今後も事業活動を今まで以上に発展し継続する「決意」と今までお付き合いさせていただいている建設会社様、工場の皆様、商店の皆様、地域の皆様等、今後も今まで以上に安心してお付き合いしていただくための環境を創っていくという「約束」でもあります。

また弊社で働く従業員に対しても安心して働ける事業環境を創りと「定年までは安心して働ける会社」にする。「誇れる会社」を創る一つの事業でもあります。

今後ともより一層、事業活動に邁進していきますので皆様のご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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2015年10月06日

秋ですね

こんにちは植田浩行です

秋ですね
お祭りの季節です。毎日準備です(笑)

祭りが近づくと秋本番&冬の始まりを感じます
祭りの後はSUPレースの一年の締めくくり「熊野SUPマラソン」です

去年は15KMにエントリーして3.5時間で無事完走!
景色を楽しむ余裕もなく必死だったので
今年は弱気に8KMにエントリーしました。
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景色を楽しむってことで(笑)

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2015年04月08日

自分の言葉

こんにちは植田浩行です。

2015年度始まりました。
相変わらずの毎日と相変わらずの性格で(笑)ぶっ飛ばしています!

最近、様々な出来事があって考えるのですが、自分の言葉で話せない人が非常に多いですね
ネットの普及のおかげで便利にはなったのですがコピペが酷い(笑)
青年会議所でも議案や趣意書等コピペしてる奴がいたな〜

でもね伝わらないんですよ。喋りのうまさより「自分の言葉」

僕は大事だと思います。

ってなことで
2015年度の会社の方針を社員に伝えました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2015年度榛原電業全体スローガン
「常に考える」
工事部スローガン
「やりきる」
2014年度が終わり2015年度新たなスタートです。
去年の7月の決算では4.8億売り上げることが出来ました。
皆さんの努力と力が結果に結びつきました。
売り上げ規模で言うならば大井川〜天竜川までの本社所在地で2番目、
安倍川まで行くと4〜5番目ではないかと思います。
規模感で行くとこの地域でのリーダー的な会社に育ってきました。
売り上げとは前にも伝えたように社会に必要とされた数値であり、
胸の張れる成績です。ここまで来れたことに感謝します。ありがとうございます。

さて現在、アベノミクノクスの影響で円安、物価上昇が如実になっています。
それに伴い所得が増える予定が地方、末端ではまだまだ増えていないのが現実で消費も伸びていません。
また外交不安等まだまだ日本、そして地方はまだまだ先が見えていない状況は否めません。
そこに輪をかけ消費税の8%での消費の冷え込み、さらに今後は10%になる事は否めず、
景気の減速が心配されます。また市場で今までやってきた太陽光発電工事のバブルも終焉を迎え、
会社経営では更なる経費負担の増加と新規受注先、新規工事分野の発掘と先の見えない要素を抱えてのスタートです。

この3年間は太陽光バブルと公共工事の受注により売上高、利益を伸ばすことが出来ました。
しかし今期からの受注に関しては短期、長期で見ても高利益率を叩きだしたこのような工事は見込めない
というのが現状です。また現実的に新築建設工事に関しては物件数も少なく
電気工事の競争はもとより元請である建設会社の競争の激化は否めません。
今後の方針として我々は新規顧客の開拓、選ばれる下請け、必要とされる下請け、
また下請けから元請へのステップアップし、社内における組織力の強化や効率化を実施し、
無駄な贅肉をそぎ落とし時代を担う電気工事業者になって行かなければいけません
そして先に書いたように様々な問題や状況を常に把握し

「BESTな選択」「BESTな方法」

を常に考え行動して行くことが非常に大事になって行きます。
様々な不安定要素を抱える中、私たちは「常に考え」「行動」し個々の力を十二分に発揮し、
結束してチーム榛原一丸となって成果と結果を出していかなければいけません。

経営理念である「誇れる会社にする」を念頭に、誇れる会社への実現に向けて本年度も一段とレベルアップを図っていきます。社員、その家族、客先、地域、社会が必要とされる存在意義を常に追求、行動をして頑張って行きましょう!


2015年のテーマ(2014年度からの継続)

満足から感動へ
満足とは足りないものを補うということです。ものが無い時代や品質が安定していない時代には思い通りの
結果「満足」を提供することに終始してきました。逆に思い通りの結果でなければ「不満」「怒り」に
なってきます。しかし、いまや「満足」が当たり前の時代となり、我々の行う電気、空調、通信工事も
できて当たり前、品質が良く、安くて当たりまえの時代に入ってきました。

私たちはこれまでは新規の工事ジャンルを開拓し、電気工事でも様々な分野へ挑戦し成長をしてきたと
思っています。これからは、さらなる挑戦と思っている以上の結果の提供「感動の提供」が我々の
目指すべき方向であり、最低限「満足」は提供し次へのステージ「感動」の提供を念頭に事業活動を
していかなければいけないと考えます。

スローガンへ対する思い

本年度のスローガンは「常に考える」としました。
先にも書いた様に常に考え、様々な不安定要素の中、常にBESTを考え行動し、
今以上に付加価値をつけ感動を提供できるよう本年度は進んでいきましょう。
また新規客先の開拓、新規工事分野等への進出、選ばれる会社、
選ばれる人となるよう考え行動していくことが重要です。

工事部は「やりきる」としました。最近は建築現場、管理者のスキル低下は否めず、
現場等で多々ある「段取りの悪さ」や「嫌な事」「めんどくさい事」「結果の出ないこと」にもめげずに
最後まで「やりきる」という事が日々の業務としても、メンタル的にも非常に重要です。
そこに我々の付加価値もあり、また存在意義もあると思います。

そこを打破していく為にも「常に考え」「やりきり」知恵をしぼり行動をしていきましょう。
そして現在、弊社は会社一丸となり現場の努力で現在の評価を頂いています。
今後はさらに進化し、さらなる個々の技術の向上、対応力の向上、
人間力の成長をしていくことが今後の需要課題です。
社訓にあるよう個人、個人が、会社が自分自身であるという自覚をもって頑張って行きましょう!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分の言葉で書いてみました(笑)チャンチャン!



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2015年01月30日

榛原高校父母談話会

こんにちは植田浩行です。

PTA主催の榛原高校父母談話会に講師で伺いました。
高校1年生の1クラス1コマ時間を頂きお話をしてきたのですが、今回初めての経験で緊張しまくりでした。
大人に対してはJCなんかでするのですが、結構固いだったので高校生ってどんな反応をするのか心配でしたが何とか少しの笑いも取れて一安心

今どきの高校生って真面目なんですね。
しっかりしてるし、話もちゃんと聞くし良い子ばっかりな感じです
自分達の高校生の頃って(一応、榛原高校OB)ですけど悪い事?やんちゃな事?ばっかしてて
どうしようもなかったです。
当時の話をしても自分達とのギャップがすごくてすごく驚きました。

まあ
伝わったかどうか分からないのですが、後日の感想を楽しみに待ちます

覚えで講演内容をUPしておきます。
後日、高校では配布する内容ですが。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今を生きる」

今を生きる.pdf

自己紹介
私は御前崎にある榛原電業の植田と言います。代表取締役という肩書と後で紹介しますが色々な肩書を持って社会生活を送っています。
今回のテーマは「今を生きる」です。

この言葉は自分の人生を変えてくれた青年会議所の活動で青年の船に乗りました。そこで講師を務めた伊勢修養団、中山先生が年賀状でくれた言葉なんです。
すごく深い意味があると思うんです。今でも自分なりの解釈を深め、今、頑張って生きています。
経験からしか学べない
話をするにあたりどんな人間か自己紹介するとともに、人間って経験からしか学べないと思うし、経験したことしか話せません。人間って様々な経験がその人の「なり」を作ります。そして今回、私の経験し学んだこと、様々な場面で感じたこと考えたことしかお伝えできませんがどうかよろしく

自己紹介をします。
1970年生まれ、生まれたのは母の実家の静波、ばいほんじゅくの入口です。父と母は御前崎で電気工事屋をやっていて、小さいころは婆さんに預けられて静波から御前崎の保育園に通っていました。
婆ちゃんと御前崎に引っ越して白羽幼稚園、小学校、御前崎中学校で、榛原高校は40回卒・男子クラスです。九州産業大学電気工学科卒業後三重県に就職しました。
24歳で家業へ入り、26歳で青年会議所活動に没頭し29歳で結婚、33歳で社長、40歳青年会議所卒業、で現在44歳、3人の娘がいて今度、長女が受験生です。今は御前崎中学校のPTA会長やっています。
後で説明しますが社団法人の役員と他の30億位売り上げのある電気工事会社の役員もやっています。趣味はバンド、ギターを弾きます。高校から始めて今でもやっています。運動は小学校のころからサッカーやっていて榛原高校サッカー部、大学は社会人リーグ、今はSUP・パドルサーフィンをやっています。

会社の紹介します。
会社名は榛原電業っていう電気工事会社です。羽陽曲折した会社で、設立はどうも戦後すぐのようです。爺ちゃん。おふくろの親方ですが爺ちゃんは戦争に行くのが嫌で満州国の電気のインフラ工事をやってたいたみたいです。爺さん生きてれば今、生きてれば95歳くらいで榛原高校OBです。
今の東京電機大学出ていて。満州から帰ってきてすぐ電気工事会社を興したらしいです。設立場所はさっき説明したバイホンジュクの入口、今、おじさんが住んでいて、民家です。当時はたくさん人がいて、御前崎から吉田まで電柱立てて、電気を引いていました。外線工事っていうやつです。
良く道路で見るトーエネックみたいな感じです。かなり儲かっていたみたいだけど気前も良くて、博打も好きでね。人に借用書も書かないでお金を貸して返してもらえなかったり、先物取引に失敗したり、船2艙作って漁師雇って漁業を初めて失敗したり婆さんの話を聞くと若いころはむちゃくちゃな爺さんだったみたいです。だから儲かってもお金が無かったってぼやいている話を聞いて育ったんです。でも小さいころはそんなことも知らずおじいちゃん大好きなおじいちゃん子に育ちました。
俺で3代目、2代目のおやじが引き継ぐとき時、いったん解散して、親父が一人で再出発、今度は内線って言って、住宅の電気なんか始めました。親父はサザエさんで言うマスオさん、職人だから従業員って言っても1人、親父、職人さん、おふくろの3人、売上2〜3千万位でやっていました。
私が就職、今、従業員は18人、売上高5億円、会社規模が15倍になりました。
榛南、中遠地方の電気工事屋さんでは2番目に大きい会社だと思います。
会社では社会貢献をしています。「ケーブハートプロジェクト」と言います。
精神障害者の方に対し支援をしています。彼らは仕事が中々ありません。
あったとしても障害を抱えているため効率よくできません。
内職頑張ってやって、納期を守っても時給100円にしかなりません。
私の会社は現場での端材の電線を寄付しています。電線の皮むき機も貸してます。
電線を剥いて売ると時給500〜600円になります。
障害者の支援、賃金向上、働くことへの喜びの一助となるように支援しています
あと、ある方から困っていると聞いたので孤児院に自転車も寄付しました。新品じゃないです。みんなが小学校卒業するとき不要になった自転車を集めて、会社で整備して磨いて寄付しました。そんなこともしています。
他に電気工事業界の全国4万社の集まる組合の役員をずっとやっています。青年部の静岡県の会長、中部ブロック(愛知、三重、岐阜、長野、静岡)の会長や全国組織の実行委員なんかやって、業界や各事業者の発展のために頑張っています。そこで知り合った仲良しの会社の社長から頼まれてそこの会社の役員もやっています。

後、さっきお話した。青年会議所は自分は26歳に入会して40歳で卒業、いろんな会社のTOPが集まってまちづくりをする団体です。この中にも多分わんぱく塾とかで関わったり参加した人がいるかと思います
全国に組織され今、全国で600位あるかな。静岡は21組織あって、ここは榛南青年会議所ってところになります。簡単に言うと「人づくり」「まちづくり」「じぶんづくり」など行って社会貢献をしています。そこで理事長やったり、とうかい号っていう青年の船、研修船の青年のリーダーをやったり、全国組織の役員やったりして全国飛び回ったりしていました。PTA会長の原口さんと一緒に活動をしていて、1つしか年齢が違わないから青年期の間ずっと色々苦労しながら活動していました。

そして今、私が今、一番注力してやっていることがあります。御前崎の渚の交番事業です。一般社団法人御前崎スマイルプロジェクトを立ち上げました。
「素敵な海と環境を創り、御前崎の海からみんなの笑顔を創る」をテーマに海の安心安全、海洋教育、環境問題などに取り組んでいます。(パンフレット参照PPT)

いま、業界発展のため、社会のためと言ってやっていることを説明しましたすが、なんで私がそのようなことを仕事や家庭、趣味以外で自分の時間とお金を使ってやっているのか、時代をさかのぼりながらお話しします。
そして今、お話ししたことはやってきた事、今やっていることです。生業も社会活動もこれは私にとって手段でしかありません
私には「夢」「志」そして人生の「仕事」があります。そこに少しでも近づくように毎日、毎日頑張っています

「夢」「志」「生き様」

青春時代・・・・「プロミュージシャンになりたい」
音楽に明け暮れる毎日
まあ皆さんは今、高校1年生ですから今までも様々な経験をしてきているので自分も高校からの話をしますね。高校時代はサッカー部で男子クラス、音楽に狂っていて勉強もやらずにサッカーとギターに狂っていました。
理由は中学校時代のMTVに衝撃を受けて、自分を表現するってかっこいいなって思いました。あとちょっと女の子にもてたいからです。
当時もサッカー部は厳しかったです。担当は金子先生、いま定時制の校長かな?
休みはお盆に2日、正月に2日位だったかなで朝練もあって御前崎で自転車通学、今思うと自分よくやったなって褒めたいです。
時間見つけてはギターの練習してました。だから勉強はしませんでした。
受験時期の3年になってもギターに明け暮れる毎日でした。
音楽イベントに出たり、自主イベント打ったりやりたいことやっていました。
話逸れますが、高校時代の出来事っていえば、なんか今も続いている巨大迷路?ちょっと自慢だけど俺たち男子クラスが始めました。いま44歳で18歳の時だから多分26年前か?? 文化祭で当時飲食店が3年で3クラスしか枠がなくて、抽選で負けた。普段、男子クラスって普段むさっ苦しくて、言いたい放題、まとまってないんだけど文化祭や体育祭なんかのイベントごとになると妙に団結してね。
悔しくて悔しくて悔しくて。なんかやって一旗揚げようってんで、当時、巨大迷路でバイトしてたやつがいて、じゃあ巨大迷路やろうぜって!講堂に教室の使わない机を運ぶからそれ利用してやろう!ってことになりました。でどうする?みんなで考えてそこら中(スーパーとか事業所)から段ボールかき集めて、机集めて、段ボール貼って夜遅くまで作ったよ。今でもその仲間は大事です。
その時バンドにも狂ってたから文化祭で何とかバンドやらせてくれって学校に交渉したなあ、結局許可が出なくで。バンドは不良がやる事だって感じかな。でも卒業した翌年はOKになったみたい。後輩たちは喜んでいました。
ここでは自分達のために動いたけど後輩たちが翌年出来て本当、良かったと思っています。
このような3年間を過ごしました。
当時は自由な校風の榛原高校(勝手に勉強せい!って感じだから・・・)は俺みたいな落第生に手を差し伸べるわけでもなく好きにやれって感じだし、大学行く気もなく、プロのミュージシャンになりたいから音楽の専門学校に行こうとしました。
当時セイキマツのギターが大好きだったのでのその方がギターが講師をしていた専門学校。
で親に行かせてくれって言ったら泣いて止められました。
何しても、どこいいから工学部電気工学科の大学卒にはなってくれってお願いされました。おふくろは榛原高校卒、初代女子剣道部員で大学行ってないんだよね。。。19で結婚して21で俺を生むんでいます。
理由を聞いたら、所詮、日本社会は学歴社会だから大卒という肩書をつけなさいと。
きっと悔しい思いや劣等感があったと思います。
榛原高校って当時は進学校でレベルも高かったしね。自分が行けなかったことをすごく後悔していました。
今思うとよくできた母親だと思います。だから親の言うことも聞いあげて欲しいです。
まあ、そういわれても、さっき言ったようにサッカー、音楽って勉強してないから困りました。
で当時のサッカー部の監督、金子先生(いま定時制の校長先生?)がサッカー続けるなら金沢工業大学はどうかと言ってくれました。
でも当時Jリーグも無いし音楽やりたかったから丁重?にお断りしました。
そこで頑張るかってんで大学を選んだ基準が、東京で無い都市部(東京はお金が掛かるから)で当時、もちろん音楽が盛んなところてことで名古屋の名城大学、愛知工業大学、大阪産業大学、福岡の九州産業大学を受けてました。
一個しか合格しなくて長渕剛の母校、九州産業大学に行く羽目になりました。
九州、博多はめんたいROCKが盛んで有名なライブハウスがたくさんあった。大学に入ってすぐ軽音楽部に入ってバンドを多い時で5つ掛け持ち、あと楽器屋の張り紙で応募したバンドで活動開始してライブハウスで月2〜3本ライブ活動してました。
初めて実家へ帰省した時、今では想像つかないと思いますが金髪でちょっと髪伸ばしてたのでおばあさんに「あんた誰?」っていわれ位、当時変身してました。大学デビューです。
大学のサークルは遊びで本格的にライブハウスのバンドで頑張りました。
当時。週2回のスタジオ、曲作りをしてライブ、ツアーこなして、チケット売って頑張りました。
チャンスが来ます。当時、いかすバンド天国ってアマチュアバンドの大会の番組(たま、ブランキージェットシティ、歌舞伎ロックス、AURA、JITTERIN'JINN、ビギン、ソリッドボンド)があって、LIVE VTRの審査が通り、九州初の出場をもらって東京まで機材積んで15時間かけてみんなで車で行きました。
最悪の結果だったけど楽しかったし、有名人にも会えたし、TV収録ってものも経験した。いい経験が出来たし、いい思い出です。
そのバンド俺が大学1年の時でほかの5人編成だったんだけど、メンバー4人は4年生、でドラムの人は就職、他3名はプロをめざし上京ってことで解散しました。
まだまだ夢追い掛けて新しいバンド組みました。
今度は結構いけてます。月2でLIVEやってそこでYAMAHAにスカウトされました。
そこで知ったのはPROの厳しさです。
プロのスタジオをいつでも使っていいし機材も1流で要求はすごかったです。
1週間にラフで10曲持ってきて。後メジャーコード系。とにかくしんどかったです。
良いやつ曲にするから。。。頑張って作っても半分使い捨てです。
その後バンドでよくある音楽性の不一致で解散します。
まだ若かったから喧嘩するんです。俺はデビューしたかったし、晴れやかな世界に行きたかったけど、ドラムとベースの子は売れ線はダメだって言うです。
ハードロックバンドだから重くてなきゃダメ、キャッチーはダメだとか。
揉めました。苦しかったです。
僕はバンドのバンマスやっててみんなのスケジュール調整と、LIVEスケジュールや事務所とかいろんな所ところのやり取りをやっていました。
今みたいに携帯ないし、LINEもないし(笑)連絡するだけでも大変なのに皆、みんな言いたい放題になってくるんです。
バンドマンなんて個性の集まりですからまともなやつってあんまいないんです。
そんなんが続いて人間関係も崩れ、疲れちゃました。それで解散したんです。
解散した頃、就職が近づいてきます。
音楽の夢に破れどうしよう??って当時、無気力でした。どうでもよかったです。
いわゆる就活どうする?ってなるんです。当時はバブルのはじけた翌年!で最悪な状況でした。今に比べればいいんだけど大手はかなり減りましたが3、4倍くらいありました。
でどうしたかっていうとさっき言ったようにまあ、実家が電気屋だし、子供(3人)を大学出せれるくらい稼げるから良いかなって思いました。
そんな単純な理由です。大手が良いとか?どうでもよかったです。
まあこの高校、大学時代の自分のやりたいことを仲間たちと目いっぱいやったってこと楽しかったし、やりたいことに集中してみんなで夢見て頑張った自分がいる。高校、大学って勉強も大事だけどお金と時間を使って掛かけがえのないものがあると思います。
今の自分にとって勉強よりも大事なものを育んだと思っています。

青年期・・・「あの会社に負けたくない」「金持ちになりたい」
JCとの出会い
22歳で社会に出て今44歳22年いろんなこと経験しながら今があります。
会社に24歳で入社して44歳までに会社規模は15倍になりました。
さっき話をした青年会議所に入って私の人生は大きく変わりました。
JCの活動・運動は私にとって人生の転機でした。
もしやっていなかったらどうしようもない人間になっていたなって自分でも思います。
ここで私は生きる意味を考え、今の心の軸としています。
私に気づきを与えてくれた青年会議所を中心には話をします。
24歳で家業に入りました。毎日ただただ業務をこなす毎日です。
同級生と毎晩の飲みに出かけて、サッカーチーム作って、海には入ってという生活です。
何も考えていません。毎日が過ぎていくだけの2年間でした。
取引先の先輩に26歳で青年会議所へ誘われ入会します。
入った動機は無いです。
ただただ地元の先輩が入れ!ってこの一言「わかりました」で入りました。
田舎の先輩後輩って怖いです。あと経営者の集まりだからいろんな社長と知り合って仕事になりそうとか仕事貰えるかも?と不埒な思惑もあって入りました。
そんな軽い気持ちで入ったのですが、実は何も知らず紹介するように大変な目に合うんです。
ここで青年会議所の説明をします。
青年会議所(ジュニアチェンバー・JC)って言います。略してJCって言いますね。
でJCって何もわからず入ったんだけどやってみたらすごかったです。世界組織です。
マークもすごいです。この地球のマークは国連とJCとユニセフが使っています。
民間組織の中で唯一国連マークの使用を許されているそうです。
日本の青年会議所は1949年、明るい豊かな社会の実現を理想とし、「戦後の復興は我々青年の使命である」と責任感と情熱をもった青年有志による東京青年商工会議所(商工会議所法制定にともない青年会議所と改名)設立から、日本の青年会議所(JC)運動は始まりました。
共に向上し合い、社会に貢献しようという理念のもとに各地に次々と青年会議所が誕生しました。ここの榛南は1984年 730番目にできた。
1951年には全国的運営の総合調整機関として日本青年会議所(日本JC)が設けられました。 現在、日本全国に青年会議所があり、「修練」「奉仕」「友情」の三つの信条のもと、よりよい社会づくりをめざし、ボランティアや行政改革等の社会的課題に積極的に取り組んでいます。
さらには、国際青年会議所(JCI)のメンバーとして各国の青年会議所と連携し、世界を舞台として、さまざまな活動を展開しています。
ここに入るといろんな機会が与えられます。地元のJCから出向と言って、地元と掛け持ちだけど「世界」「日本」「東海地区」「静岡ブロック」とエリアごとに委員会があって地元理事長の推薦があればどこにでも行けます。
すべて自腹で行きます。(笑)先輩になったら奢らなくてはいけません。
そこは自分が率先していく場合もあるし、先輩に「行け!」って行かされたりする場合があります。
全国いろんなとこに自腹で行かなきゃいけないし、会議や、議論もあって書類も作らなきゃいけません。さっき話したように仕事じゃないのに大変なことだらけです。
移動、登録料、年会費、懇親会、お金がたくさん出ていきます。
年間多い時で5~600万、通常でも100万位平気で使います。
この活動と在籍は40歳まで限定です。40歳が来ると卒業します。
とにかくお金と時間が掛かります。わたしは背伸びもしたいし、見栄も張りたい自分がいたんです。
JC活動もしなきゃいけない、仕事もしなきゃいけない、稼がなきゃいけない。
だから寝る間も惜しんで150%~200%ぐらいで働きます。当然遊びにも行けません。
始めたきっかけは他愛もない動機だし、大変な事ばっかりなんだけど、やり始めると面白かったです。
最初は先輩もおごってくれるし、高そうなお店連れてってくれるし、いろんな人に会っていろんな考えも聞いて、いろんな場所で経験したこともないような事をして、とにかく楽しいが先でした。それが29~30歳ぐらいの時、ちょうど結婚して子供が出来たころです。
だから必死に働いて稼いでお金作って、自分の代わりに仕事してくれる人育ててみたいなことをしたんだけど実は上手くいきませんでした。従業員をやとってもまともに続きません。
当時は「金持ちになりたい」とか「あの会社に負けたくない」「JCやりたい」意味のない動機で不純だから見透かされていました。でも、がむしゃらにやっていましたからそれでも、そのころで大体1.2億位会社も売り上げていました。
ここまでは若さとおやじのコネクションと当時、住宅の建設ラッシュで何とかやってきたのですけど、さらにここからが苦しみました。
住宅の建設ラッシュも終わり掛けでしたが慣れてきたころで若かったからお客さんの大工さん喧嘩したりしました。
このころの榛原電業の電気工事って住宅が主流でした。コンセントの位置とか、スイッチの位置って大工さんが決めるんです。
施主じゃないんです(びっくり)、下請けの私たちが口出すと生意気!とか「しゃらくさい」って言われます。
タバコ吸うから換気扇が欲しいって施主が言っても大工さんが「そんなもんいらん!」の一言で終わりです。
私たちは地元でしょ、顔が見えるから施主が後になって「何でこんなところにコンセント?スイッチ?とかここ欲しかったんだけど」ってなクレームみたいな話が直接来るわけです。「なんで?」思いました。「おかしい」って思いました。一応正義感はあったんです。
だからアドバイスしました「お施主さんの希望を聞いてください」って言いました。
「おかしいもの」に「おかしい」って進言したらお客さんの大工さんが怒りました。
田舎の大工さんは横とつながりが強いから噂になって、仕事貰えなくなっちゃいました。当時、悩みに悩んだし、苦しい思いや悪口も陰でいっぱい叩かれたけど、信じていました。
「これはきっと正しい、お客さんの本当の気持ちだ」正しいことを正しいと言おうと。
信念は貫き通しました。
納得いかないからそんな奴ほっといて、自分で納得する仕事を探したり、JCの仲間にも助けられたし、ちょうど電気工事組合の青年部にも入って助けてもらったりして事業を拡大っていうか現状維持できました。でも会社は順調に行っていたわけではありません。
34歳までJC活動、仕事の両立で悶々としました。
相変わらずJCと仕事をやっていたんですけど、先輩がついて来てほしいという事で全国組織の委員会に行くことになりました。そこで自己を見つめる機会を貰う訳です。
全国飛び回っていろんな人に会い、いろんな人ががむしゃらに社会のために奉仕していました。そして自分自身も考えさせられるんです。楽しさだけでやっているJCとは違うと感じました。その時、ちょうど鹿児島の知覧に行きました。
特攻隊が出発した場所です。戦時中にこのような少年、青年が犠牲になったのです。命を懸けてこの国を守ったんです。記念館もあって遺言、残された家族への手紙が読める場所です。10代から20代の少年、青年が自らの命を引き換えに日本の未来、残された家族、子供の幸せを願い、死んでいくのです。本当は行きたくないはずです。
遺言読みました。涙が止まりません。頭をガンと殴られたような衝撃です。
今までのちっちゃい自分が恥ずかしくなりました。自分が気持ちよければいいのかって思いました。

私は戦争を美化するつもりはありません。当時の状況として犠牲にならざるを得なかったのです。決して彼は行きたいとは思ってなかったはずです。そして私は決してこのようなことは2度と起きてはいけないと願います。犠牲になった青年たちの想いに対し私たちは残されたものとしてどうなのか?真剣に思いました。
「あの会社に負けたくない」「金持ちなりたい」とか何の基準もないのにバカなことです。
そこで思うんです。

「自分の存在意義ってなんなんだろう?」
「何のために生きているのだろう?」
「自分の幸せってなんなんだろう?」
「何のためにJCやってんだろう?」
「会社をどうしたいのだろう?」
「社会のために何が出来るんだろう?」

すごく考え悩みました。自分は何をしたいんだい? 答えが出ました。
「自分に関わる人すべてを幸せ、笑顔にしよう」「みんな笑顔でいてほしいって」
自分の夢、志だったり目指すべき社会であったりするんです
生きるってことの意味が少しわかった瞬間です。
「自分が動いて一人でも幸せ、笑顔になるなら動こう!」
自分の判断基準が出来ました。会社でも社会活動でもここが基準となりました。
志を立てどう生きるか。生きる意味を自分自身が納得し行動すると自分自身の行動も変わり、さらに周りが変わってきました。JCの活動も変わってきました。すべてが面白いように転がって行きました。39歳で理事長しました。JCの先頭に立って旗を振りました。
一人が100頑張るより、100人が1頑張って少しでもみんなが幸せになろうって。
一人の百歩より、100人の1歩です。JCの最後は同じようなことを青年の船に乗って若い人たち伝えました。今、みんなは力強く歩いています。卒業しました。
類は友を呼ぶといいます。また御前崎で同じ志の人が集まります。 
さっき話した「渚の交番」です。この地域のため、子供たちのために立ち上がったんです。
みんな頑張っています。ボランティア、社会奉仕で飯が食えるか?そういった社会への挑戦しています。我々の行動が後世へきっと続くことを信じてやっています。
仕事の仕方も変わりました。競争して人の仕事を奪ってでも拡大していくこともやめました。自分の正義での仕事をしました。そうしたら売り上げもどんどん上がってきました。お金にも執着することはやめました。そしたら今度はお金がたくさん集まってきました。
さっき話した業界でも必要とされいろんな役や仕事も頼まれるようになりました。
だから今日、僕は会社を開けてここにいます。会社では従業員のみんなが会社を支えてくれています。

さっきは難しい話をしました。皆さんはまだ高校1年生です。
僕は今、志を立てろとか大きい夢を持てなんて言いません。私は35歳で気づきました
皆さんにはまだまだ時間があります。そしてまだ夢や志なんてないと思います。
私の「プロになりたい」「金持ちになりたい」「あの会社に負けない」プロになってどうするの?金持ってってどうするの?夢では無くて目標だったんです。
目標を達成した先が何もありませんでした。でも僕は今それでいいと思います。
目一杯やってください。だから私が言いたいことは一つです。
目一杯やって自分を磨いてください。
今を一生懸命生きてください。これから来るであろう本当の夢の実現に向けて今を生きてほしいと思います。
今、この年になって分かったことがあります。
学生時代やJCやっていた青年時代は分け分からず一生懸命やりました。
いろんな人といろんなことしました。そしていろんな人を傷つけました。
でもいろんな人から、いろんなことを学びました。
自分を磨いて欲しいと言いました。どうするか?それは人で磨いてもらうしかないってことです。
それはダイヤと同じです。ダイヤはダイヤでしか磨けないように人は人でしか磨けないからです。そして自分の経験や人との切磋琢磨した経験からでしか学ぶことはで来ません
夢があればそこに向かって頑張ればいいです。でも夢が無かったり悩んでいるのであれば理由なんかともかくエネルギッシュに若々しく元気に自分自身の可能性を信じてやりたいことを目一杯やってほしいです。それが青春であり人生の力強い人としての年輪になります。 だからこそ人と人とのリアルな絆を育んでほしいです。
人と比べるのではなく自分の想いと信念で行動し友達と議論したり喧嘩したり力合わせたりとか切磋琢磨してほしいです。
そして一人一人、頑張ってください。またみんなで応援してください友達のこと
「どうやったら目標や夢がかなうのか?」
そんな人たちが周りにいたらきっと素敵な社会になります。いつか来る夢に向かって一生懸命ひたむきに頑張ってほしいと思います。それが今を生きるという事だと思っています。

最後に
僕には夢があります「みんなが努力して平和で笑顔で過ごせる社会にしたい」って
僕には使命があります「自分に関わる人すべてを幸せにしよう」って
家族や従業員を食べさせ生活に困らないよう、お金を稼ぐことを「生業」というのであるならば僕の仕事は「世のため人のために生きるいう事」
いま僕は生業(電気工事業)と仕事が一致できるように今頑張っています。

そして僕には信条があります。「やってみるから全ては始まる」です。
失敗する可能性は沢山あるけどまずはやってみなければ何も始まらないです。
人は失敗というけれど、僕にとってそれは次への一歩です。無駄な事なんては一つもないです。だから前を向いて今を一生懸命生きています。親子ほどあるけど君たちの中でいつか僕たちと一緒に何かできる日が来ることを楽しみにしています。

本日はありがとうございました。


posted by はいでん at 08:45| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

建前

こんにちは植田浩行です。
今日はあっちに行ったりこっちに行ったりと高速道路を行ったり来たり。。。
さすがに腰がしんどいです。

今日は民営化されたある会社の方と打合せ
やっぱり元、国営だったのか建前が大事なんです。
お互い本音の部分は分かっているんですけどね。
お気持ち察しますって感じです(苦笑)

自分は零細企業の社長だから言いたいほうだい!
本音で
「ばあーーーん」
ってやっちゃうから楽だし幸せなんだな。。。敵は多いけど(笑)

さあ!
明日から大阪に工場にて製品検査立会のため出張です。
ミナミでフィバーできる?かな?
留守をしご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

そして
明後日は榛原高校で「生きるとは」について1時間、話をします。
どうなる事やら。。。

応援よろしくお願いします!!
posted by はいでん at 20:27| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする