2015年01月30日

榛原高校父母談話会

こんにちは植田浩行です。

PTA主催の榛原高校父母談話会に講師で伺いました。
高校1年生の1クラス1コマ時間を頂きお話をしてきたのですが、今回初めての経験で緊張しまくりでした。
大人に対してはJCなんかでするのですが、結構固いだったので高校生ってどんな反応をするのか心配でしたが何とか少しの笑いも取れて一安心

今どきの高校生って真面目なんですね。
しっかりしてるし、話もちゃんと聞くし良い子ばっかりな感じです
自分達の高校生の頃って(一応、榛原高校OB)ですけど悪い事?やんちゃな事?ばっかしてて
どうしようもなかったです。
当時の話をしても自分達とのギャップがすごくてすごく驚きました。

まあ
伝わったかどうか分からないのですが、後日の感想を楽しみに待ちます

覚えで講演内容をUPしておきます。
後日、高校では配布する内容ですが。。。
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「今を生きる」

今を生きる.pdf

自己紹介
私は御前崎にある榛原電業の植田と言います。代表取締役という肩書と後で紹介しますが色々な肩書を持って社会生活を送っています。
今回のテーマは「今を生きる」です。

この言葉は自分の人生を変えてくれた青年会議所の活動で青年の船に乗りました。そこで講師を務めた伊勢修養団、中山先生が年賀状でくれた言葉なんです。
すごく深い意味があると思うんです。今でも自分なりの解釈を深め、今、頑張って生きています。
経験からしか学べない
話をするにあたりどんな人間か自己紹介するとともに、人間って経験からしか学べないと思うし、経験したことしか話せません。人間って様々な経験がその人の「なり」を作ります。そして今回、私の経験し学んだこと、様々な場面で感じたこと考えたことしかお伝えできませんがどうかよろしく

自己紹介をします。
1970年生まれ、生まれたのは母の実家の静波、ばいほんじゅくの入口です。父と母は御前崎で電気工事屋をやっていて、小さいころは婆さんに預けられて静波から御前崎の保育園に通っていました。
婆ちゃんと御前崎に引っ越して白羽幼稚園、小学校、御前崎中学校で、榛原高校は40回卒・男子クラスです。九州産業大学電気工学科卒業後三重県に就職しました。
24歳で家業へ入り、26歳で青年会議所活動に没頭し29歳で結婚、33歳で社長、40歳青年会議所卒業、で現在44歳、3人の娘がいて今度、長女が受験生です。今は御前崎中学校のPTA会長やっています。
後で説明しますが社団法人の役員と他の30億位売り上げのある電気工事会社の役員もやっています。趣味はバンド、ギターを弾きます。高校から始めて今でもやっています。運動は小学校のころからサッカーやっていて榛原高校サッカー部、大学は社会人リーグ、今はSUP・パドルサーフィンをやっています。

会社の紹介します。
会社名は榛原電業っていう電気工事会社です。羽陽曲折した会社で、設立はどうも戦後すぐのようです。爺ちゃん。おふくろの親方ですが爺ちゃんは戦争に行くのが嫌で満州国の電気のインフラ工事をやってたいたみたいです。爺さん生きてれば今、生きてれば95歳くらいで榛原高校OBです。
今の東京電機大学出ていて。満州から帰ってきてすぐ電気工事会社を興したらしいです。設立場所はさっき説明したバイホンジュクの入口、今、おじさんが住んでいて、民家です。当時はたくさん人がいて、御前崎から吉田まで電柱立てて、電気を引いていました。外線工事っていうやつです。
良く道路で見るトーエネックみたいな感じです。かなり儲かっていたみたいだけど気前も良くて、博打も好きでね。人に借用書も書かないでお金を貸して返してもらえなかったり、先物取引に失敗したり、船2艙作って漁師雇って漁業を初めて失敗したり婆さんの話を聞くと若いころはむちゃくちゃな爺さんだったみたいです。だから儲かってもお金が無かったってぼやいている話を聞いて育ったんです。でも小さいころはそんなことも知らずおじいちゃん大好きなおじいちゃん子に育ちました。
俺で3代目、2代目のおやじが引き継ぐとき時、いったん解散して、親父が一人で再出発、今度は内線って言って、住宅の電気なんか始めました。親父はサザエさんで言うマスオさん、職人だから従業員って言っても1人、親父、職人さん、おふくろの3人、売上2〜3千万位でやっていました。
私が就職、今、従業員は18人、売上高5億円、会社規模が15倍になりました。
榛南、中遠地方の電気工事屋さんでは2番目に大きい会社だと思います。
会社では社会貢献をしています。「ケーブハートプロジェクト」と言います。
精神障害者の方に対し支援をしています。彼らは仕事が中々ありません。
あったとしても障害を抱えているため効率よくできません。
内職頑張ってやって、納期を守っても時給100円にしかなりません。
私の会社は現場での端材の電線を寄付しています。電線の皮むき機も貸してます。
電線を剥いて売ると時給500〜600円になります。
障害者の支援、賃金向上、働くことへの喜びの一助となるように支援しています
あと、ある方から困っていると聞いたので孤児院に自転車も寄付しました。新品じゃないです。みんなが小学校卒業するとき不要になった自転車を集めて、会社で整備して磨いて寄付しました。そんなこともしています。
他に電気工事業界の全国4万社の集まる組合の役員をずっとやっています。青年部の静岡県の会長、中部ブロック(愛知、三重、岐阜、長野、静岡)の会長や全国組織の実行委員なんかやって、業界や各事業者の発展のために頑張っています。そこで知り合った仲良しの会社の社長から頼まれてそこの会社の役員もやっています。

後、さっきお話した。青年会議所は自分は26歳に入会して40歳で卒業、いろんな会社のTOPが集まってまちづくりをする団体です。この中にも多分わんぱく塾とかで関わったり参加した人がいるかと思います
全国に組織され今、全国で600位あるかな。静岡は21組織あって、ここは榛南青年会議所ってところになります。簡単に言うと「人づくり」「まちづくり」「じぶんづくり」など行って社会貢献をしています。そこで理事長やったり、とうかい号っていう青年の船、研修船の青年のリーダーをやったり、全国組織の役員やったりして全国飛び回ったりしていました。PTA会長の原口さんと一緒に活動をしていて、1つしか年齢が違わないから青年期の間ずっと色々苦労しながら活動していました。

そして今、私が今、一番注力してやっていることがあります。御前崎の渚の交番事業です。一般社団法人御前崎スマイルプロジェクトを立ち上げました。
「素敵な海と環境を創り、御前崎の海からみんなの笑顔を創る」をテーマに海の安心安全、海洋教育、環境問題などに取り組んでいます。(パンフレット参照PPT)

いま、業界発展のため、社会のためと言ってやっていることを説明しましたすが、なんで私がそのようなことを仕事や家庭、趣味以外で自分の時間とお金を使ってやっているのか、時代をさかのぼりながらお話しします。
そして今、お話ししたことはやってきた事、今やっていることです。生業も社会活動もこれは私にとって手段でしかありません
私には「夢」「志」そして人生の「仕事」があります。そこに少しでも近づくように毎日、毎日頑張っています

「夢」「志」「生き様」

青春時代・・・・「プロミュージシャンになりたい」
音楽に明け暮れる毎日
まあ皆さんは今、高校1年生ですから今までも様々な経験をしてきているので自分も高校からの話をしますね。高校時代はサッカー部で男子クラス、音楽に狂っていて勉強もやらずにサッカーとギターに狂っていました。
理由は中学校時代のMTVに衝撃を受けて、自分を表現するってかっこいいなって思いました。あとちょっと女の子にもてたいからです。
当時もサッカー部は厳しかったです。担当は金子先生、いま定時制の校長かな?
休みはお盆に2日、正月に2日位だったかなで朝練もあって御前崎で自転車通学、今思うと自分よくやったなって褒めたいです。
時間見つけてはギターの練習してました。だから勉強はしませんでした。
受験時期の3年になってもギターに明け暮れる毎日でした。
音楽イベントに出たり、自主イベント打ったりやりたいことやっていました。
話逸れますが、高校時代の出来事っていえば、なんか今も続いている巨大迷路?ちょっと自慢だけど俺たち男子クラスが始めました。いま44歳で18歳の時だから多分26年前か?? 文化祭で当時飲食店が3年で3クラスしか枠がなくて、抽選で負けた。普段、男子クラスって普段むさっ苦しくて、言いたい放題、まとまってないんだけど文化祭や体育祭なんかのイベントごとになると妙に団結してね。
悔しくて悔しくて悔しくて。なんかやって一旗揚げようってんで、当時、巨大迷路でバイトしてたやつがいて、じゃあ巨大迷路やろうぜって!講堂に教室の使わない机を運ぶからそれ利用してやろう!ってことになりました。でどうする?みんなで考えてそこら中(スーパーとか事業所)から段ボールかき集めて、机集めて、段ボール貼って夜遅くまで作ったよ。今でもその仲間は大事です。
その時バンドにも狂ってたから文化祭で何とかバンドやらせてくれって学校に交渉したなあ、結局許可が出なくで。バンドは不良がやる事だって感じかな。でも卒業した翌年はOKになったみたい。後輩たちは喜んでいました。
ここでは自分達のために動いたけど後輩たちが翌年出来て本当、良かったと思っています。
このような3年間を過ごしました。
当時は自由な校風の榛原高校(勝手に勉強せい!って感じだから・・・)は俺みたいな落第生に手を差し伸べるわけでもなく好きにやれって感じだし、大学行く気もなく、プロのミュージシャンになりたいから音楽の専門学校に行こうとしました。
当時セイキマツのギターが大好きだったのでのその方がギターが講師をしていた専門学校。
で親に行かせてくれって言ったら泣いて止められました。
何しても、どこいいから工学部電気工学科の大学卒にはなってくれってお願いされました。おふくろは榛原高校卒、初代女子剣道部員で大学行ってないんだよね。。。19で結婚して21で俺を生むんでいます。
理由を聞いたら、所詮、日本社会は学歴社会だから大卒という肩書をつけなさいと。
きっと悔しい思いや劣等感があったと思います。
榛原高校って当時は進学校でレベルも高かったしね。自分が行けなかったことをすごく後悔していました。
今思うとよくできた母親だと思います。だから親の言うことも聞いあげて欲しいです。
まあ、そういわれても、さっき言ったようにサッカー、音楽って勉強してないから困りました。
で当時のサッカー部の監督、金子先生(いま定時制の校長先生?)がサッカー続けるなら金沢工業大学はどうかと言ってくれました。
でも当時Jリーグも無いし音楽やりたかったから丁重?にお断りしました。
そこで頑張るかってんで大学を選んだ基準が、東京で無い都市部(東京はお金が掛かるから)で当時、もちろん音楽が盛んなところてことで名古屋の名城大学、愛知工業大学、大阪産業大学、福岡の九州産業大学を受けてました。
一個しか合格しなくて長渕剛の母校、九州産業大学に行く羽目になりました。
九州、博多はめんたいROCKが盛んで有名なライブハウスがたくさんあった。大学に入ってすぐ軽音楽部に入ってバンドを多い時で5つ掛け持ち、あと楽器屋の張り紙で応募したバンドで活動開始してライブハウスで月2〜3本ライブ活動してました。
初めて実家へ帰省した時、今では想像つかないと思いますが金髪でちょっと髪伸ばしてたのでおばあさんに「あんた誰?」っていわれ位、当時変身してました。大学デビューです。
大学のサークルは遊びで本格的にライブハウスのバンドで頑張りました。
当時。週2回のスタジオ、曲作りをしてライブ、ツアーこなして、チケット売って頑張りました。
チャンスが来ます。当時、いかすバンド天国ってアマチュアバンドの大会の番組(たま、ブランキージェットシティ、歌舞伎ロックス、AURA、JITTERIN'JINN、ビギン、ソリッドボンド)があって、LIVE VTRの審査が通り、九州初の出場をもらって東京まで機材積んで15時間かけてみんなで車で行きました。
最悪の結果だったけど楽しかったし、有名人にも会えたし、TV収録ってものも経験した。いい経験が出来たし、いい思い出です。
そのバンド俺が大学1年の時でほかの5人編成だったんだけど、メンバー4人は4年生、でドラムの人は就職、他3名はプロをめざし上京ってことで解散しました。
まだまだ夢追い掛けて新しいバンド組みました。
今度は結構いけてます。月2でLIVEやってそこでYAMAHAにスカウトされました。
そこで知ったのはPROの厳しさです。
プロのスタジオをいつでも使っていいし機材も1流で要求はすごかったです。
1週間にラフで10曲持ってきて。後メジャーコード系。とにかくしんどかったです。
良いやつ曲にするから。。。頑張って作っても半分使い捨てです。
その後バンドでよくある音楽性の不一致で解散します。
まだ若かったから喧嘩するんです。俺はデビューしたかったし、晴れやかな世界に行きたかったけど、ドラムとベースの子は売れ線はダメだって言うです。
ハードロックバンドだから重くてなきゃダメ、キャッチーはダメだとか。
揉めました。苦しかったです。
僕はバンドのバンマスやっててみんなのスケジュール調整と、LIVEスケジュールや事務所とかいろんな所ところのやり取りをやっていました。
今みたいに携帯ないし、LINEもないし(笑)連絡するだけでも大変なのに皆、みんな言いたい放題になってくるんです。
バンドマンなんて個性の集まりですからまともなやつってあんまいないんです。
そんなんが続いて人間関係も崩れ、疲れちゃました。それで解散したんです。
解散した頃、就職が近づいてきます。
音楽の夢に破れどうしよう??って当時、無気力でした。どうでもよかったです。
いわゆる就活どうする?ってなるんです。当時はバブルのはじけた翌年!で最悪な状況でした。今に比べればいいんだけど大手はかなり減りましたが3、4倍くらいありました。
でどうしたかっていうとさっき言ったようにまあ、実家が電気屋だし、子供(3人)を大学出せれるくらい稼げるから良いかなって思いました。
そんな単純な理由です。大手が良いとか?どうでもよかったです。
まあこの高校、大学時代の自分のやりたいことを仲間たちと目いっぱいやったってこと楽しかったし、やりたいことに集中してみんなで夢見て頑張った自分がいる。高校、大学って勉強も大事だけどお金と時間を使って掛かけがえのないものがあると思います。
今の自分にとって勉強よりも大事なものを育んだと思っています。

青年期・・・「あの会社に負けたくない」「金持ちになりたい」
JCとの出会い
22歳で社会に出て今44歳22年いろんなこと経験しながら今があります。
会社に24歳で入社して44歳までに会社規模は15倍になりました。
さっき話をした青年会議所に入って私の人生は大きく変わりました。
JCの活動・運動は私にとって人生の転機でした。
もしやっていなかったらどうしようもない人間になっていたなって自分でも思います。
ここで私は生きる意味を考え、今の心の軸としています。
私に気づきを与えてくれた青年会議所を中心には話をします。
24歳で家業に入りました。毎日ただただ業務をこなす毎日です。
同級生と毎晩の飲みに出かけて、サッカーチーム作って、海には入ってという生活です。
何も考えていません。毎日が過ぎていくだけの2年間でした。
取引先の先輩に26歳で青年会議所へ誘われ入会します。
入った動機は無いです。
ただただ地元の先輩が入れ!ってこの一言「わかりました」で入りました。
田舎の先輩後輩って怖いです。あと経営者の集まりだからいろんな社長と知り合って仕事になりそうとか仕事貰えるかも?と不埒な思惑もあって入りました。
そんな軽い気持ちで入ったのですが、実は何も知らず紹介するように大変な目に合うんです。
ここで青年会議所の説明をします。
青年会議所(ジュニアチェンバー・JC)って言います。略してJCって言いますね。
でJCって何もわからず入ったんだけどやってみたらすごかったです。世界組織です。
マークもすごいです。この地球のマークは国連とJCとユニセフが使っています。
民間組織の中で唯一国連マークの使用を許されているそうです。
日本の青年会議所は1949年、明るい豊かな社会の実現を理想とし、「戦後の復興は我々青年の使命である」と責任感と情熱をもった青年有志による東京青年商工会議所(商工会議所法制定にともない青年会議所と改名)設立から、日本の青年会議所(JC)運動は始まりました。
共に向上し合い、社会に貢献しようという理念のもとに各地に次々と青年会議所が誕生しました。ここの榛南は1984年 730番目にできた。
1951年には全国的運営の総合調整機関として日本青年会議所(日本JC)が設けられました。 現在、日本全国に青年会議所があり、「修練」「奉仕」「友情」の三つの信条のもと、よりよい社会づくりをめざし、ボランティアや行政改革等の社会的課題に積極的に取り組んでいます。
さらには、国際青年会議所(JCI)のメンバーとして各国の青年会議所と連携し、世界を舞台として、さまざまな活動を展開しています。
ここに入るといろんな機会が与えられます。地元のJCから出向と言って、地元と掛け持ちだけど「世界」「日本」「東海地区」「静岡ブロック」とエリアごとに委員会があって地元理事長の推薦があればどこにでも行けます。
すべて自腹で行きます。(笑)先輩になったら奢らなくてはいけません。
そこは自分が率先していく場合もあるし、先輩に「行け!」って行かされたりする場合があります。
全国いろんなとこに自腹で行かなきゃいけないし、会議や、議論もあって書類も作らなきゃいけません。さっき話したように仕事じゃないのに大変なことだらけです。
移動、登録料、年会費、懇親会、お金がたくさん出ていきます。
年間多い時で5~600万、通常でも100万位平気で使います。
この活動と在籍は40歳まで限定です。40歳が来ると卒業します。
とにかくお金と時間が掛かります。わたしは背伸びもしたいし、見栄も張りたい自分がいたんです。
JC活動もしなきゃいけない、仕事もしなきゃいけない、稼がなきゃいけない。
だから寝る間も惜しんで150%~200%ぐらいで働きます。当然遊びにも行けません。
始めたきっかけは他愛もない動機だし、大変な事ばっかりなんだけど、やり始めると面白かったです。
最初は先輩もおごってくれるし、高そうなお店連れてってくれるし、いろんな人に会っていろんな考えも聞いて、いろんな場所で経験したこともないような事をして、とにかく楽しいが先でした。それが29~30歳ぐらいの時、ちょうど結婚して子供が出来たころです。
だから必死に働いて稼いでお金作って、自分の代わりに仕事してくれる人育ててみたいなことをしたんだけど実は上手くいきませんでした。従業員をやとってもまともに続きません。
当時は「金持ちになりたい」とか「あの会社に負けたくない」「JCやりたい」意味のない動機で不純だから見透かされていました。でも、がむしゃらにやっていましたからそれでも、そのころで大体1.2億位会社も売り上げていました。
ここまでは若さとおやじのコネクションと当時、住宅の建設ラッシュで何とかやってきたのですけど、さらにここからが苦しみました。
住宅の建設ラッシュも終わり掛けでしたが慣れてきたころで若かったからお客さんの大工さん喧嘩したりしました。
このころの榛原電業の電気工事って住宅が主流でした。コンセントの位置とか、スイッチの位置って大工さんが決めるんです。
施主じゃないんです(びっくり)、下請けの私たちが口出すと生意気!とか「しゃらくさい」って言われます。
タバコ吸うから換気扇が欲しいって施主が言っても大工さんが「そんなもんいらん!」の一言で終わりです。
私たちは地元でしょ、顔が見えるから施主が後になって「何でこんなところにコンセント?スイッチ?とかここ欲しかったんだけど」ってなクレームみたいな話が直接来るわけです。「なんで?」思いました。「おかしい」って思いました。一応正義感はあったんです。
だからアドバイスしました「お施主さんの希望を聞いてください」って言いました。
「おかしいもの」に「おかしい」って進言したらお客さんの大工さんが怒りました。
田舎の大工さんは横とつながりが強いから噂になって、仕事貰えなくなっちゃいました。当時、悩みに悩んだし、苦しい思いや悪口も陰でいっぱい叩かれたけど、信じていました。
「これはきっと正しい、お客さんの本当の気持ちだ」正しいことを正しいと言おうと。
信念は貫き通しました。
納得いかないからそんな奴ほっといて、自分で納得する仕事を探したり、JCの仲間にも助けられたし、ちょうど電気工事組合の青年部にも入って助けてもらったりして事業を拡大っていうか現状維持できました。でも会社は順調に行っていたわけではありません。
34歳までJC活動、仕事の両立で悶々としました。
相変わらずJCと仕事をやっていたんですけど、先輩がついて来てほしいという事で全国組織の委員会に行くことになりました。そこで自己を見つめる機会を貰う訳です。
全国飛び回っていろんな人に会い、いろんな人ががむしゃらに社会のために奉仕していました。そして自分自身も考えさせられるんです。楽しさだけでやっているJCとは違うと感じました。その時、ちょうど鹿児島の知覧に行きました。
特攻隊が出発した場所です。戦時中にこのような少年、青年が犠牲になったのです。命を懸けてこの国を守ったんです。記念館もあって遺言、残された家族への手紙が読める場所です。10代から20代の少年、青年が自らの命を引き換えに日本の未来、残された家族、子供の幸せを願い、死んでいくのです。本当は行きたくないはずです。
遺言読みました。涙が止まりません。頭をガンと殴られたような衝撃です。
今までのちっちゃい自分が恥ずかしくなりました。自分が気持ちよければいいのかって思いました。

私は戦争を美化するつもりはありません。当時の状況として犠牲にならざるを得なかったのです。決して彼は行きたいとは思ってなかったはずです。そして私は決してこのようなことは2度と起きてはいけないと願います。犠牲になった青年たちの想いに対し私たちは残されたものとしてどうなのか?真剣に思いました。
「あの会社に負けたくない」「金持ちなりたい」とか何の基準もないのにバカなことです。
そこで思うんです。

「自分の存在意義ってなんなんだろう?」
「何のために生きているのだろう?」
「自分の幸せってなんなんだろう?」
「何のためにJCやってんだろう?」
「会社をどうしたいのだろう?」
「社会のために何が出来るんだろう?」

すごく考え悩みました。自分は何をしたいんだい? 答えが出ました。
「自分に関わる人すべてを幸せ、笑顔にしよう」「みんな笑顔でいてほしいって」
自分の夢、志だったり目指すべき社会であったりするんです
生きるってことの意味が少しわかった瞬間です。
「自分が動いて一人でも幸せ、笑顔になるなら動こう!」
自分の判断基準が出来ました。会社でも社会活動でもここが基準となりました。
志を立てどう生きるか。生きる意味を自分自身が納得し行動すると自分自身の行動も変わり、さらに周りが変わってきました。JCの活動も変わってきました。すべてが面白いように転がって行きました。39歳で理事長しました。JCの先頭に立って旗を振りました。
一人が100頑張るより、100人が1頑張って少しでもみんなが幸せになろうって。
一人の百歩より、100人の1歩です。JCの最後は同じようなことを青年の船に乗って若い人たち伝えました。今、みんなは力強く歩いています。卒業しました。
類は友を呼ぶといいます。また御前崎で同じ志の人が集まります。 
さっき話した「渚の交番」です。この地域のため、子供たちのために立ち上がったんです。
みんな頑張っています。ボランティア、社会奉仕で飯が食えるか?そういった社会への挑戦しています。我々の行動が後世へきっと続くことを信じてやっています。
仕事の仕方も変わりました。競争して人の仕事を奪ってでも拡大していくこともやめました。自分の正義での仕事をしました。そうしたら売り上げもどんどん上がってきました。お金にも執着することはやめました。そしたら今度はお金がたくさん集まってきました。
さっき話した業界でも必要とされいろんな役や仕事も頼まれるようになりました。
だから今日、僕は会社を開けてここにいます。会社では従業員のみんなが会社を支えてくれています。

さっきは難しい話をしました。皆さんはまだ高校1年生です。
僕は今、志を立てろとか大きい夢を持てなんて言いません。私は35歳で気づきました
皆さんにはまだまだ時間があります。そしてまだ夢や志なんてないと思います。
私の「プロになりたい」「金持ちになりたい」「あの会社に負けない」プロになってどうするの?金持ってってどうするの?夢では無くて目標だったんです。
目標を達成した先が何もありませんでした。でも僕は今それでいいと思います。
目一杯やってください。だから私が言いたいことは一つです。
目一杯やって自分を磨いてください。
今を一生懸命生きてください。これから来るであろう本当の夢の実現に向けて今を生きてほしいと思います。
今、この年になって分かったことがあります。
学生時代やJCやっていた青年時代は分け分からず一生懸命やりました。
いろんな人といろんなことしました。そしていろんな人を傷つけました。
でもいろんな人から、いろんなことを学びました。
自分を磨いて欲しいと言いました。どうするか?それは人で磨いてもらうしかないってことです。
それはダイヤと同じです。ダイヤはダイヤでしか磨けないように人は人でしか磨けないからです。そして自分の経験や人との切磋琢磨した経験からでしか学ぶことはで来ません
夢があればそこに向かって頑張ればいいです。でも夢が無かったり悩んでいるのであれば理由なんかともかくエネルギッシュに若々しく元気に自分自身の可能性を信じてやりたいことを目一杯やってほしいです。それが青春であり人生の力強い人としての年輪になります。 だからこそ人と人とのリアルな絆を育んでほしいです。
人と比べるのではなく自分の想いと信念で行動し友達と議論したり喧嘩したり力合わせたりとか切磋琢磨してほしいです。
そして一人一人、頑張ってください。またみんなで応援してください友達のこと
「どうやったら目標や夢がかなうのか?」
そんな人たちが周りにいたらきっと素敵な社会になります。いつか来る夢に向かって一生懸命ひたむきに頑張ってほしいと思います。それが今を生きるという事だと思っています。

最後に
僕には夢があります「みんなが努力して平和で笑顔で過ごせる社会にしたい」って
僕には使命があります「自分に関わる人すべてを幸せにしよう」って
家族や従業員を食べさせ生活に困らないよう、お金を稼ぐことを「生業」というのであるならば僕の仕事は「世のため人のために生きるいう事」
いま僕は生業(電気工事業)と仕事が一致できるように今頑張っています。

そして僕には信条があります。「やってみるから全ては始まる」です。
失敗する可能性は沢山あるけどまずはやってみなければ何も始まらないです。
人は失敗というけれど、僕にとってそれは次への一歩です。無駄な事なんては一つもないです。だから前を向いて今を一生懸命生きています。親子ほどあるけど君たちの中でいつか僕たちと一緒に何かできる日が来ることを楽しみにしています。

本日はありがとうございました。


posted by はいでん at 08:45| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

建前

こんにちは植田浩行です。
今日はあっちに行ったりこっちに行ったりと高速道路を行ったり来たり。。。
さすがに腰がしんどいです。

今日は民営化されたある会社の方と打合せ
やっぱり元、国営だったのか建前が大事なんです。
お互い本音の部分は分かっているんですけどね。
お気持ち察しますって感じです(苦笑)

自分は零細企業の社長だから言いたいほうだい!
本音で
「ばあーーーん」
ってやっちゃうから楽だし幸せなんだな。。。敵は多いけど(笑)

さあ!
明日から大阪に工場にて製品検査立会のため出張です。
ミナミでフィバーできる?かな?
留守をしご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

そして
明後日は榛原高校で「生きるとは」について1時間、話をします。
どうなる事やら。。。

応援よろしくお願いします!!
posted by はいでん at 20:27| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

中小企業家同友会の周年に出席してみて

こんにちは植田浩行です。
中小企業家同友会の設立40周年に参加して来ました。

つまらないと感じている会ですが食わず嫌いではいけないと思い参加した次第です(笑)

結論から行くとやっぱり「違和感」を覚えます。
溶け込めない自分。。。。。まだまだ修行が足りないようです。

JCが染み付いてしまっているせいもあるのかもしれませんが馴染むまで時間が掛かりそうです。

基本、「今」を大切にしている自分、「企業」がすべてではない自分との闘いなのかもしれませんし
もしかしたら生きるフィールドが少しずれているのかもしれません。

でも意見、考え方の違う人も受け入れることも大事だしそこから学ぶことがあると信じています。
一応、頑張ってみようかと思いますが。。。

てな週末でした!

応援、よろしくお願いします!!!!!
posted by はいでん at 20:25| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生き様のお話し

みなさんこんばんは。お忙しい中、本日も出席を頂きありがとうございます。

まずは御岳山噴火に伴い卒業生の増田さんはじめ犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに王滝に対しPTA、生徒会と義捐金活動を行っていただいていることに感謝を申し上げます。
また御中の親子講演会お疲れ様でした。まさに受験を控えた3年生、また部活等に活用できる大変有意義な講演会だったと思います。その後、個人的にですが講師の佐藤さんともメールのやり取りやFBと通じて交流をしています。
そこでの会話ですが「このような能力UPに関してはぜひ指導者、保護者が積極的に行わないと子供たちの無限の力は発揮できないですよねって」お互いの共通認識として話をしました。
前にもお話をしたと思いますが、人生にいて多感な時期に子供たちの多くは親の立ち振る舞いを見て現実社会、物事の判断基準を学んでいき成長していきます。そして、これから受験を迎える3年生はあと5ヶ月もすれば義務教育を終えて晴れて、「選択」という自由を手にします。言い換えれば勉強はしなくてもいいし、法律やルールを守れば、まあ親が良しとすれば何をやってもいい。だから私たち保護者がしにゃあいかんし、子供たちが「二本足で立ち、生きる」ってことを「生き様」を教えてあげないといかないなってつくづく思います。
まあ固い話になりましたが、私たちも後半戦、任期が後5ヶ月弱なので少しづつですが、私が青年会議所等で学んできた中から、PTA会長として皆様にメッセージをお伝えしようと思います。

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「大人として」・・・・新聞投稿文

 親子講演会お疲れ様でした。まさに受験を控えた3年生、また部活等に活用できる大変有意義な講演会だったと思います。その後、今回のご縁で講師の佐藤さんともメールのやり取りやFBと通じて交流をさせていただいています。
そこでの話ですが「このような能力アップに関しては、ぜひ指導者、保護者が積極的に学び、行わないと子供たちの無限の力は発揮できないですよねって」お互いの共通認識として話をしました。
前にもお話をしたと思いますが、人生にいて多感な時期に子供たちの多くは親の立ち振る舞いを見て現実社会、物事の判断基準を学んでいき成長していきます。そして、これから受験を迎える3年生はあと5ヶ月もすれば義務教育を終えて晴れて、「選択」という自由を手にします。言い換えれば勉強はしなくてもいいし、法律やルールを守れば、まあ親が良しとすれば何をやってもいい。だから私たち親がしっかりしなければいけないし、子供たちが「二本足で立ち、生きる」ってことを「生き様」とは何かを教えてなければいけないと思います。固い話になりましたが、私が活動をしていた青年会議所時代の人生の先輩(2009年度 会頭 安里さん)から「大人として」というメッセージを頂いたのでご紹介したいと思います。

あなたは「大人として」子どもたちに自分の言葉で生き様を語れますか。
教育とはまず親が子供に対してすべきことです。親が子どもに何かを伝えるとき、そこには、我が子への深い愛情と、命がけで守り抜くというつよい信念と、それを裏付けることのできる実行力が伴っていなければ説得力はない。まずは「自分は我が子に対して説得力のある親であるだろうか?」そんな自問自答が必要だと考えます。
我々はきちんと親孝行をしているだろうか?
我々が自分の親に対して敬意を払う姿勢からしか、子どもたちは、親孝行のなんたるかを学ぶことはできないだろう。同様に、大人の背中を見て、そこに憧れや偉大さを感じなければ、子どもたちは、生きることの目標を見失うに違いない。
最小限のコミュニティである家族の中で芽生える「家族愛」の尊さをはじめ、地域で伝わる伝統や文化と共に、そこに生きる喜びを表す「郷土愛」、そして祖国を想う素直な心でアイデンティティを育むことの大切さを説く「国家愛」を、自分の言葉で語れない親であっては、あまりにも悲しすぎる。
ある統計によると、「規則や法律を守ると損をする」と考える中高生が 73パーセントもいる。このことは、我々大人を映し出す鏡だと真摯に受け止めなければなない。
教育を考えるにあたり、教育者を含めた我々大人は、子どもたちにどんなメッセージを送れているのだろうか。それが、子どもたちにどのように伝わっているのだろうか。 
教育とは、子どもたちをまっとうな大人へと育むことであり、あるべき大人の生き様を伝えることである。大人はその背中を通して、伝統や文化の大切さ、愛する者を守ることの尊さ、生きることの素晴らしさを伝えなければならない。
そこから、子どもたちの心に感謝という気持ちを芽生えさせ、自然環境を守ることの大切さ、先人達を敬う豊かな心、祖国を想い、世界の平和を求める当たり前の思想を形成する。そんな説得力のある大人の背中を見せ続けることこそ、今の我々に求められている最大の責務というべきでないか。

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中田厚仁さんのお話し

「だけれども、僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕はその誰かになりたい」

■1.I am dying■
 "I am dying"(私は死んでいきます)という荘重な言葉を最期に、中田厚仁さんが、25年の短い生涯を終えたのは、今から5年前の平成5年4月8日、場所はカンボジア、コンポトム州であった。中田さんはUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)のボランティ
アメンバーとして、総選挙実施の支援活動をしていた途中、何者かに、至近距離から2発撃たれ、一発の銃弾は左側の頭の後ろから左目に貫通したのである。
20年もの内戦の続くカンボジアでようやく停戦合意が成立し、総選挙を実施する事になった。中田さんは選挙について説明をするため、各地を廻っていた。武装解除に応じないグループもあり、また国土には1000万発といわれる地雷が埋設されている。その中
でも最も危険なコンポトム州に自ら志願した。悪路に次ぐ悪路で、車で行けなくなると、川に出てフェリーで行く。フェリーが駄目になるとカヌーを漕いでいく。それでも行けなくなると、2時間以上も泳いで村々を廻ったという。

■2.投票箱の中から感謝の手紙■
 奇しくも中田さんの49日の法要と同じ日、5月23日に総選挙が実施された。中田さんが担当した地域の投票率は99.99%、カンボジア全土の90%を遥かに超えていた。投票箱を開けてみると、投票 用紙の間から、手紙がいくつも出てきた。その一つはこう語ってい
る。
今まで民主主義とか人権とかいう言葉に触れることなく、一生戦争のなかで、暮らさねばならないのか、と思っていたけれども、こうやって初めて自分たちの意思が表せる選挙ができ、こんな嬉しい事はない。ありがとう。

■3.僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない■
 厚仁さんは、昭和43年に生まれた。仁は慈しみを持って、人を愛する心、そういう心の厚い人になって欲しいと両親は願って、 厚仁」と名付けた。
 商社マンだったお父さんとともに、小学校時代をポーランドで過ごし、お父さんに連れられてアウシュビッツの収容所も訪れている。そこで感じた事もあったのであろう。中学一年の時に「ポーランドの福祉」という文章を書いている。

僕は今思います。ポーランドの人たちは、福祉というものをお金持ちが貧しい人に施しをするようなものだとは決して考えていない事です。その考えの底に強く流れているものは、自分たちよりも力の弱いものに対する暖かい思いやりのある心です。 ・・・ 
それは、 ポーランドの人たちが戦争という不幸な体験の中 で、多くの同胞を失い、財産を失い、生きていくために必要な最低限度のものさえ失った中にあっても、決して失わなかったものです。・・・
僕が見てきたポーランドの人たちはこう言っていました。
「人はパンのみにて生くるにあらず」。僕は今強く思います。
僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない。

■4.厚仁さんの示したもの■
 遺骨を抱いて、帰国された父・武仁さんから、「政府は、あるいはUNTACはどう責任をとってくれるのか」というような恨みつらみの言葉を聞き出そうとした放送局のインタビュアーもいた。しかし武仁氏は、息子の死に対して、誰かに責任を求めるような言葉
一つ吐かず、逆に次のような手記を残された。

 厚仁のからだは白い布に包まれ、とどめを刺された一撃である後頭部から左目に貫通した銃弾の痕も、それと分からないように包帯で包まれていました。母親がせめて手だけでも握ってあげたいと申しまして、恐れおののきつつ白い布を解きますと、厚仁の手は胸のうえで合掌するように組まれていました。この姿を見たとき、私には、厚仁が私たちの息子であるというようりも何か崇高なものであるような気がしたのです。・・・

息子ではありますが、気だかい人間性の発露、人間の尊厳を見たような気がして、もう厚仁は私たちのものなどではなく、たいへん気高いものになったという感動を覚えました。・・・

信ずるもののためには命を捧げても行動する、という崇高さを持った人間を示してくれたことが、厚仁の救いであると思います。貴いもの、崇高なものが人間の中にはあるということを信じさせてくれた事が。

 「今でも深夜や朝方には、耐え切れず、泣き叫ぶことがある」という親としての悲しみと、息子の気高い姿に人間として感動するという事は、ともに真実の思いであろう。

■5.なんであなたがいかなければならないの■
 カンボジアへのPKOに参加した日本人は数多い。自衛隊からは、総勢約1800人、また文民警察として75人の警察官が派遣された。そのうちのひとり高田警視も命を落とされている。自衛隊の伊丹のある部隊では、PKOへの志願が定員の30倍に
も達したという。
「日本の代表としてしっかり活躍したい。同じアジアの国の発展に協力できる事がうれしい」(陸二曹28才)
「当初は両親にも反対されましたが、国際貢献のためだからと必死に説得した。」(陸三曹30才)
 派遣の一ヶ月前、長男が生まれたばかりの妻は、夫(陸三曹)の派遣が決まった時、「なんであなたがいかなければならないの」と泣きながら訴えたという。
「私が泣いた時、主人はじっと黙っていた。恐らく辛かったのでしょう。生まれたばかりの子供のそばにいてもらいたい。今でも行って欲しくない。」
 危険な地雷処理をしても、その手当は1時間で缶ジュース1本分、家族への電話代、1分千円前後の通話料も、自己負担だという。そういう悪条件にもくじけず、カンボジアに赴いた青年達の気持ちは、中田厚仁さんと変わるところがないであろう。

「なんであなたがいかなければならないの」という妻の訴えに答え
るのは、中田厚仁さんの次の言葉だ。

だけれども僕はやる。
この世の中に誰かがやらなければないない事がある時、僕は、その誰かになりたい。

2年後、厚仁さんが殺害された場所に人が集まってきて自然に村が出来ました。
村人たちは厚仁さんの温かい人柄や献身的な活動や無念の死を悼み、感謝を歴史に残そうと、村の名前を「アツ・ビレッジ」と名付けました。正式には「ナカタアツヒコ・コミューン」。しかし、この新しい村の誕生直後に大洪水が襲います。それを知った武仁さんは日本全国で募金を呼びかけました。そして村人に「このお金を村の人たちの食糧を買う足しにして下さい」と言って渡しました。村人は喜んで受け取りましたが食糧を買いませんでした。
「私たちは文字通り喉から手が出るほどお米が欲しい。お腹を一杯にしたい。しかし我慢する。私たちはナカタ・アツヒコさんが世界市民として生きられたその志と、日本の皆様の温かい心を私たちの子どもや孫に伝えたい。そのためにナカタさんが息を引き取られた地に学校を造りたい」とその寄付金で学校を建てたといいます。厚仁さんの教えがこの村人達に受け継がれていたのです。

厚仁さんの残した言葉が「だけれども、僕はやる。
この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕はその誰かになりたい」

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【頭の回転が速い】といわれる人の共通点とは?

【頭の回転が速い】といわれる人の共通点とは?
急に何かを言われると、モノゴトを理解して答えを出すために数秒かかってしまう…。
多くの人はそんな経験をしたことがあるのではないだろうか。
しかし、何を言われてもすぐに返すことが出来る。突拍子の無いことでも、自分なりに意見をすぐに言える。そんな人々に出会ったことはないだろうか?
俗に言う《頭の回転が速い人々》だ。
彼らはナゼ周りの人よりも頭の回転が速いのか?共通点は彼らの日常生活にあった…。

普段の生活、あなたはどのように過ごしているだろうか。

朝起きて支度をして、ショッピングをしたり友達とランチをしたり、はたまたカフェで読書かカラオケなどに行くのだろうか?
頭の回転が速い人々もあなたと特に変わらない生活を送っている。いわゆる一般的な生活だ。しかし日常生活に取り入れている小さなことが、2つの間に大きな違いを生んでいる。
しかもこれは、意識をすれば誰にでも出来るようなことだ。誰もが頭の回転が速い人になれる。

ではその小さいこととは?

それは、を考えているかどうかだ。

『疑問が脳を強くする』

この疑問は脳を強くする。自分に「ナゼ?」と投げかけることで人は考え出す。この「思考すること」によって脳は鍛えられる。頭の回転が速い人は、日常生活にを取り入れて日頃から考えることを習慣化させている傾向にあると思われる。

例えば、渋谷のとある8Fのカフェに行ったとする。閑散とした店内に数人のお客さん。ここで「ナゼこのカフェは人が少ないのだろう?」「数あるカフェの中で、ここに来たお客さんは何を求めているのだろう?」という質問を自分に投げかける。そうすると人は答えを考え出す。「カフェにはふと寄ることが多く、そうすると立地的に8Fに行くことは珍しい。だから店内が閑散としている。」「全席禁煙のカフェが増えた中でここは喫煙可能なカフェであり、そのせいもあってリピーターとして来るお客さんがいるのではないか。」など、無数の答えが浮かび上がる。

がしかし、大事なのは[答え]ではなく[思考]というプロセスが大切なのだ。
センター街にあるチーズケーキ専門店はナゼ人気なのか?
渋谷にはナゼ系列店が集中しているのか?
ナゼ電車の中で寝ている人が多いのか、また自分はナゼ寝ないのか?
この思考量が脳に柔軟性を与える。そうすることで、経験という1つの引き出しを思考により10コにも100コにも出来るのだ。
だから、色んな話に応用出来る。

常にがあるからこそ、経験していない出来事に対しても、自分が経験した似た出来事から当てはめていくことが出来るのだ。

『多くの人はWHYを考えない』

多くの人はだけで完結させる。
何が欲しいからどうする。」
何をしたいからどうする。」
この2つだけで終わる。もちろんも重要なのだが、

1番大切なのはなのだ。・・・・・・「ナゼそれをやるのか?」

ナゼとはモノゴトの根幹であり、それを理解せずには本質を突くことは出来ない。本質を突けないと小手先の技術でその場しのぎくらいしか出来ず、深みのある思考は出来ない。
しかし、そもそもの教育方法として効率化のために<ナゼ>を考えさせないように出来ていると思われる。マニュアル化され、言われたことをやる。その単純作業に思考は不要だ。
「この課題をやってきなさい」その後に「何故ならその課題は○○で役に立つから」と聞いたことがあるだろうか?
「この職務に就きなさい」その後に「何故ならその職務はあなたの○○が合うから」と聞いたことがあるだろうか?
思考停止状態で、言われたことを素直にやる機械と同様だからを考えない人材は扱いやすい。
だから思考量が圧倒的に足りなく、頭の回転が遅いと言われるのだ。

『ナゼ?は好奇心という感情の思考化』

頭の回転が速い人は好奇心旺盛だ。未知に対して興味を持ち、無知を知に変えるために行動に移す。好奇心は「ナゼ」という言葉から始まる。つまり「ナゼ」は好奇心という感情の思考化とも言える。好奇心旺盛な人の方が世の中のモノゴトに疑問を持ちやすい、ということは『頭の回転が速い人々』は好奇心(自分の本心)に対して従順なのだ。

そして思考することの良いことは、『未知に対して自分の知の中から答えを導く』ということにある。頭の中にある知識を組み合わせて答えを導き出すことで、脳に刺激を与えて活性化させ、柔軟にする。その知識を組み合わせることの応用が色んな場面で使われる。そしてそれを習慣化させれば応用力がつき、どんな未知に対しても瞬間的に脳の引き出しを開けて組み合わせ、1つの【自分の回答】を生み出すのだ。

誰しもが持っている好奇心を如何に自分の未知に対して働かせ、思考化できるかが『頭の回転を速くする』ために必要不可欠な要素になるわけだ。
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PTA会長の挨拶

「楽しく笑顔で!」  PTA会長 植田浩行

始めに総会への多数の出席ありがとうございました。
総会も無事に終了し、いよいよPTA活動の本格的なスタートです。スタートに当たり本年のテーマとして「楽しく、笑顔で!」としました。皆様1年間の積極的な参加とご協力をお願いします。

さて、教育には5つの側面があるといわれています。共に学び育つ「共育」協力して育てる
「協育」競わせ育てる「競育」強く育てる「強育」親を見て育つ「鏡育」です。まさに5つの要素すべては子供たちのために先生と保護者が共にお互いが楽しく笑顔で力を合わせてPTA活動を行うことで成果を上げることが出来ると信じています。

人生にいて多感な時期に子供たちの多くは親の立ち振る舞いを見て現実社会、物事の判断基準を学んでいきます。保護者が子供たちの学校生活に積極的にかかる事、私たちの立ち振る舞いが楽しく笑顔であればきっと子供たちにその思いは伝播し成長してくれると信じています。そして役員の皆様には我々保護者もPTA活動を通じてちょっと無理してみようとお伝えしました。

今までの生活の中にPTA活動の時間を割くわけですからどこかの時間を削り今まで自分がしていたことを人に頼み時間を捻出しなければなりません。今までの行動を変えることにより新たな発見と出会いが自分自身の成長に繋がります。我々保護者も常に勉強し成長が必要だと思っています。

かけがえのない時間を自分づくりから始めPTA活動を楽しく笑顔で始め楽しく過ごしましょう。

1年間ご協力のほどよろしくお願いします。
posted by はいでん at 19:48| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

PTAの関係を投稿していきます

こんにちは植田です

中々、更新できてません。ごめんなさい
よろしければFBで投稿をしているので見てください。
また、友達申請もお待ちしています。「植田浩行」で探してください

さて、御前崎中学校のPTA会長を引き受けて1年が経ちます
もう終盤ですが、今まで皆さんにお伝えした事をメモとしてUPして置きます。
よろしければご参照ください



posted by はいでん at 19:44| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする